おかあさん④


私を生んでくれたおかあさんのことはほとんど覚えていないのですが、2つだけハッキリと覚えているシーンがあります。


ひとつは、ネンネコでオンブされて、タコ焼きをフーフーして口に入れてもらっている場面…(大阪ならでは笑)おかあさんの背中にピッタリくっついた感覚をハッキリ覚えています。嬉しそうな小さな私の顔が見えてきます。あ… だからかなぁ… 私は後ろからペタっと抱きつくのが大好きです♡


もうひとつは… おかあさんが出て行った朝の場面。まだ暑かった記憶があったのですが、父によると9月15日だったそうです。おかあさんは私にすがってオイオイ泣いていました。私は何が何だかワケが分からず事情を把握できていなかったと思います。おかあさんが泣きじゃくりながらいろんなことを私に必死に訴えていたのは覚えているのですが、何を言っていたのかは思い出せません。大人の全体重がどのくらいの時間4歳の女の子にかかっていたでしょうか。私は正座をしていたのか足がしびれて困っていました。いったいいつまでこの状態が続くのかなぁと、おかあさんの言葉よりも足のしびれの方が気になっていました。


それから先の記憶はありません。


父によると、その後、おとうさん、おばあちゃん、妹と4人で何かの劇を観に行ったそうです。その間にトラックが来ておかあさんの荷物を運び出したそうです。もちろん帰宅するとおかあさんはいません。父によると、2歳前の妹が「ママは〜?ママは〜?」とグズっていたそうです。その年齢ならそりゃそうですよね。そこで私は妹をギュッと抱きしめて「大丈夫だよ、大丈夫だよ」。となだめていたそうです。


私、優しいお姉ちゃんだよね〜。おかあさんが泣きながら私に言ったのは「妹の面倒を見てあげてね、仲良くするのよ」。っていうようなことだった気がします。それで私は忠実に妹を守ろうとしたんだと思います。


多分… その時から私は甘えたり頼ったり泣いたりできなくなったんだと思います… これが自立ってヤツですかね。

 

新幹線での出来事〜それぞれの常識

お弟子さん講座が終わった日曜日も飯田橋のホテルに泊まりました。そして翌日の月曜日に東京在住の友人とランチを楽しみ、その後新幹線に乗りました。予約したのが遅かったので私のいつもの特等席(一番後ろの窓側)は取れずに後ろから二列目の通路側で少しテンション低め。でも、トイレに立つ時に楽だし〜と、前向きに考え(そんな大したことじゃないんですが笑)師匠やお弟子仲間のブログを読んでいました。


名古屋で横の人が降りてラッキー!と思ったのも束の間、新しい人が乗り込んできました… 直感的に嫌な気配… しばらくしてその30代くらいの女は電話を始めました… ごく普通に… その人の話す言葉が耳に入ってきてブログに集中できない… ちょうどYちゃんのブログの時でした… そう言えば、Yちゃんとセッションをした時にマサにそんな話をしたよな… 人に注意をするしない、正義感の話… でもすぐ終わるなら、と我慢しました。


少しして終わったけれど、また少し経って悪びれる様子もなく堂々と(結構大きめな声)電話で会話を始めた彼女… Yちゃんの顔が浮かんできて(笑)思い切って言いました。「あちら(後ろの連結)でしてもらえませんか?」頑張って、多分、優しい口調で… そうしたら、すぐに切ってくれましたが、その後で… 鬼の形相で睨まれました。意外な反応にドキドキして、思わず謝りそうになりましたが、待てよ、私は悪くない… はず…  彼女「すみません〜ペコッ」 私「イイですよ〜ニコッ」という平和的終結を私は期待していたけれど、彼女にすれば、少しくらい、とか、急ぎなのに(そうでもなさそうだったけど)とか言い分があるのかな… 私がカタすぎるのでしょうか… 私だけの常識?その後は静かな空間で再びブログを読んでいましたが、新大阪まで気まずい雰囲気が続きました…(^^;)


以前、通勤の時に駅の待合いボックスで電車を待っていたところ、ある男性がタバコを吸い始めたので「ここ禁煙ですよ〜」って(優しく)言ったら、その時もその人は何も言わずに睨んで出て行きました… 連れの女性にも「別にイイやん」と言われて睨まれました(ーー;) 会社に着いて同僚たちにその話をしたら「いろんな人がいるから身の安全のためには何も言わない方が良いよ」と注意されて、世の中そんなものなのかなぁと心がワサワサしました。


これって… 私が善人ぶってる?そして他人をコントロールすることになるのでしょうか?


そもそも、公の場で電話で話すこと、タバコを吸うことってイケナイこと?社会が勝手に決めたルール?


私の中の〝常識〟が少しわからなくなりました… でも、多分、私は変わらないと思うけど(笑)

カウンセラー+旅

お弟子さん講座の4回目が終わりました。毎回様々なことを学んで少しずつ成長しているような気がします。今回2日目のグループワークの時、ある話題で〝中国〟の話になって、私の新婚旅行の話をしました。


会社員だった私はその時の〝権利〟を最大限に利用して(結婚休暇+有給休暇+GW)合計23日間も休んじゃいました。まだ若かったので(^_-) そしてバックパッカーで中国シルクロードの旅をしました。アフガニスタン付近の(今では危険であろう)地域まで行き、ウイグル自治区万里の長城の終点から逆戻りでスタート地点を目指して列車やバスを乗り継いで旅したという話… 意外だったようで皆に驚かれました。〝ヨーロッパのイメージなのに♡〟と言われたのが嬉しくて気を良くしていました(^-^)


その話の時に、某元ビジュアル系男子に『旅の話をブログに書けば?その時々の心情や人との出会い等々心理学に絡めて…』みたいなことを言われてハッとしました。そうだ、私は旅が大好き♡ それならいくらでも書けるかも。ちょっとワクワクしてきました。他の情熱系美女メンバーにも『旅しながらいろんな国でカウンセリングしたらいいやん!』と言われて、それも楽しそうだなぁと海辺のセッションを想像したりしてニンマリしておりました(笑)みんなクリエイティブだな〜素敵なアイデアをありがとう!そうやって人の価値を感じ取って可能性を引き出すことがてぎるのってスゴイですよね。こうやってカウンセラーさんは人を幸せにしていくのでしょうね。素晴らしい!!!

おかあさん③


「おかあさんの誕生日覚えてる?」

「覚えてるよ、1月23日だよ」

「おとうさん、それ、私の誕生日だよ」

「1月23日だよ」


おとうさん、ついにボケちゃった?!?


「うららちゃんと同じ誕生日なんだよ」


「。。。。。」


ビックリしたけれど、嬉しかった。おかあさんは、自分の誕生日が来るたびに私のことも思い出してくれてたんだよね、きっと。


おとうさんは、思い出すように、でも、いろんなことをハッキリと覚えているようでした。両親は結果的に上手くいかなかったけれど、確かに私を生んでくれたおかあさんのことをおとうさんが愛した事実は存在するんだ、とそんな時間が伝わってくるような不思議な感じがしました。嬉しかった。


「おかあさんが好きだった唄があったんだよ」

「なんて言う唄?」

「浜千鳥っていう唄だよ」


父が歌い始めた。


*************************


青い月夜の 浜辺には

親をさがして 鳴く鳥が

波の国から 生まれ出る

ぬれた翼の 銀のいろ


夜鳴く鳥の かなしさは

親をたずねて 海こえて

月夜の国へ 消えてゆく

銀の翼の 浜千鳥


*************************


帰りの車でYouTube で聴いてみた。私ひとりだけ、誰にも聞こえない車内、号泣した。そしてスッキリした。最近よく泣けるようになった気がする。グッドドクターの山崎賢人くん(はあと)が言ってたみたいに、泣くことは科学的にもメリットがいっぱいだそうです。


おかあさんが好きだった唄… 最初は自分のおかあさんのことを思って歌っていたんだと思います。そして、子どもと離れ離れになってからは、私たちのことも思って歌っていたような気がします。きっと。


私は月夜の晩に海に行くのが好きです。いつの頃からかわからないけれど、海に映る月の光を見るのが好きです。(娘にもそういう名前を付けました。)どんな思いで見ていたのか自分でもわかりませんが、多分〝無〟だったと思います。でも、何か懐かしいような穏やかな気持ちだったと思います。


おかあさんの思いが私に伝わっていたんだ。そう思いました。離れていても言葉はなくても繋がっていたんだ。そう信じたいです。

おかあさん②

おとうさんによると、おかあさんはとても嫉妬深くて、おとうさんが仕事で帰るのが遅くなっても浮気を疑ってばかりいたようです。それから、おばあちゃんと同居していましたが、それも含めて親戚付き合い等の〝係累〟をとても嫌がったそうです。そして、マイホームを持つことにとても執着していたとのこと。何か… 私と似ているなぁと思いました。


おかあさんを心理分析すると… とても愛情に飢えていたんだと思います。ずっとずっと、赤ちゃんの時から… だから、おとうさんの愛を独り占めしたかったんじゃないのかな、と思います。やっと自分のことだけを見てくれる人に出会えて家族となって、家庭を作って嬉しかったんだと思います。おかあさんは〝普通〟の家族・家庭に憧れていたんだと思います。でも、いろんな問題が癒されないまま大人になってしまって、クレクレ星人になっちゃってたのかもしれないですね。きっと、おとうさんでは支えきれなかったんだと思います。


おばあちゃんとの同居はしんどかったのかもしれないけれど、子どもが2人生まれて、おかあさんは幸せを噛みしめたりしなかったのかなぁ。子どもの存在は無償の愛… どんなことも乗り越えられる気がするけれど、おかあさんはそれ以上に傷ついていたのでしょうか?


それとも、幸せになることが怖かったのでしょうか?ずっと幸せの外にいると、幸せじゃない状況が普通になって、その状態に慣れてしまうのかもしれないですね。だから、一般的な普通の幸せの中に入ると、その幸せ自体が慣れない環境であって居心地悪く感じるのかもしれないですね。幸せが居心地悪い、違和感がある、って何かおかしな気がしますが、きっと、それが心のクセだったり、体に染み付いた感覚や感情なのかもしれないですね。


おかあさん、何がそんなに辛かったのでしょうか?何に苦しんでいたのでしょうか?今の私がその時のおかあさんに会いに行ってカウンセリングしてあげたい気持ちです。少しでもおかあさんの気持ちが楽になればなぁ、と思います。


そう言えば、師匠が会えるって言っていたよなぁ… 思い切って会いに行ってみようかな。

おかあさん①

昔々、芸者さんとお医者さんが恋に落ちました。そして芸者さんは身ごもり、女の子が生まれました。それが私のおかあさんです。


芸者さん(私のおばあちゃん)は子どもを育てられず、お医者さん(私のおじいちゃん)が引き取りました。その後、おじいちゃんは教師をしている女性と結婚をしました。そして女の子と男の子が生まれました。おかあさんも私と同じ感じの長女だったんだね。


それからどのくらい後のことかわからないけれど、おじいちゃんは愛人を作り、その人と一緒に長野から大阪に行って開業したそうです… まったく…


おかあさんはおじいちゃんを頼って大阪に行ったそうです。おじいちゃんが自分を見捨てなかったことが救いだったのでしょうか。育ててくれた母親や妹、弟といるよりも血の繋がった父親といたいと思ったのでしょうか。もしかして居場所がなかったのでしょうか。おかあさん、どんな子ども時代を過ごしたのかな。


私の父親の叔父と、おじいちゃんの本妻さんが教師仲間だったことで、それぞれ、甥と娘(義理の)を紹介し合うことになり、私の両親は出会い結婚しました。


結婚する時に両親は、おかあさんのおかあさん(芸者さん)を一緒に探したそうです。でも、見つかりませんでした。会いたかっただろうな。その気持ちわかる。でも、子どもと離れ離れになることを選択する気持ちはわからない。結局、おばあちゃんもおかあさんも同じことをしているわけで… 歴史を繰り返さないわけにはいかなかったのでしょうかねぇ。


心理学上、両親の影響はとても大きくて、その影響が引き起こす様々な問題… 特に恋愛や結婚のパターンは心理学あるあるですよね。おかあさんも教科書通りでした。


でも、だから、きっと、心温まる家族を必要として、幸せな家庭を心から望んでいたんだと思うのですが。

 

 

 

記念イヤー2019

松の内もとっくに過ぎてしまい、お正月モードからいつの間にか通常の生活パターンの毎日ですね。遅ればせながら、新しい年が皆さまにとって素晴らしい年となりますようにお祈りします。

 


過ぎ去った2019年、令和元年の昨年は、私にとって大きな変化の年でした。その変化を受け止めて理解して消化するのに時間がかかってしまいました。


でも、その変化は多分、〝お弟子さん制度二期〟のエネルギーからの流れだったと思います。自分の勇気ある行動にビックリしながらも褒めてあげたい、そんな気持ちです。そして、せっかくなので記念としてここに記録を残したいと思います。

 

 

その日はお弟子さん講座の2回目が終わって少しした11月の最後の日、私は父と2人で話をすることになりました。私の生みの母のことを聞くためです。半世紀近い年月が過ぎた今、正直、こんな日が来るとは思っていませんでした。母のことはずっとタブーでした。両親は私が4歳の時に離婚をして、私と三つ下の妹は父に引き取られました。3年後に新しいお母さんが来るまでは祖母が私たち姉妹の面倒を見てくれました。新しい母に妹が2人産まれて若草物語です。いろいろありましたが、生みの母のことは存在自体消えてしまっていて、ずっと思い出すことはありませんでした。


それが、3年前のある出来事が引き金となって、私のインナーチャイルドが目を覚ましてしまったようです。


その時は出て行った母のことが原因だとはわからなくて、無性に寂しかったり、悲しかったり、心が苦しくて仕方ありませんでした。でも、なぜ苦しいのか、その苦しみがどこから来るのか、何が原因でそんな気持ちになるのか、分かりませんでした。今までに経験したことのない感情が溢れてきて戸惑い苦しみ、自分がわからなくなりました。理由がわからないまま1年ほどが過ぎました。


そして私はおかしいのではないかという思いから、ネットで自分の感情を打ち込んで検索し続けた結果、〝カウンセリング〟にたどり着きました。1年と少しの間、週イチのペースで電話カウンセリングを受けました。カウンセラーさんに聴いてもらうことで楽になり、心の仕組みもわかってきました。でも、何かまだスッキリしなくて、またネットに救いを求め、そこでやっと師匠にたどり着きました。去年の6月のことです。一度だけ参加したセミナーの直後にお弟子さん制度の募集がありました。迷わず申し込みました。


母のことを知るのに随分時間がかかってしまいましたが、そういうタイミングだったんだと思います。お弟子さんに参加していなかったら、多分何もわからないまま私の人生は終わっていたと思います。父にその話を聞くのはとても怖かったです。実家に向かっている間中、やっぱり引き返そうか、そう何度も思いながらもハンドルを握り続けました。でも、きっと師匠はじめ〝お弟子さん〟に関わる全ての人やパワーに勇気をもらえたんだと思います。2019年は私にとって特別な年になりました。